書評 雑感

『社会はなぜ左と右にわかれるのか』

投稿日:2019年3月15日 更新日:

「義を見てせざるは勇なきなり」とはよく使われる言葉です。ただ、疑問に思うのはこの「義」とはなにかということ。この言葉自体は論語に記されているらしく、そうであれば「仁義礼智信」の義。「仁義礼智信」の義は、私利私欲にとらわれず人として正しいことを行うこと。なんとも玉虫色で、いかようにも解釈できます。

対立するとき、特に政治においてそうですが、100対0というのはそうそうありえません。政治は結果がすべてといわれることもありますが、その結果とは未来のある時点でのもの、かつある観点からのものであり、政策的もしくはイデオロギー的な対立の一方の立場を軽々しく「義」などといえるような場面は実際は少ないでしょう。

いわゆる正義論は政治哲学のテーマです。分断的な社会というのがクローズアップされる昨今、『社会はなぜ左と右にわかれるのか(著:ジョナサン・ハイト 訳:高橋洋)』をという本を読んでみたところ、意図するところが自分の思想と重なるものがありました。

ダニエル・カーネマンや、ダン・アリエリーの直観を重視する実験に惹かれる自分としては意を得る内容。いろいろな本で紹介されていて考え方が近いと感じるヒュームやデュルケーム(『人間本性論』や『自殺論』などの古典を読むのは断念したものの…)の思想が出てきたところも好感が持てました。

“理性は情念の奴隷である” - ヒューム

わたしの理念でもあるのですが、理性というものには期待できないという感覚があります。正義論や倫理学は合理的に記述はできるかもしれませんが、行動に移すとなると、それがなかなかうまくはいかない。たとえ理性的な行動とみなされるものであっても、奥の奥まで分析してみれば、なにかしらの情念に支配されていて、むしろ、情念の土台の上でしか理性は働かないのではないか、と日々感じているくらいです。

もっといえば、人は直観で行動するようにできているみたいなのです。本書の例えを出せば、理性は“乗り手”であり、直観は“象”です。道徳は合理的な思考から生まれるものではありません。「まず直観、それから戦略的な思考」と筆者は述べています。人の道徳に訴えるには、“象”すなわち直観に訴えなければならない。みなさんも日常的に、直観的な印象を理性でなんとか正当化しようとする経験をお持ちかとおもいます。

「道徳のマトリックス」

筆者は本書で、道徳システムを以下のように述べています。

「…一連の価値観、美徳、規範、実践、アイデンティティ、制度、テクノロジー、そして進化のプロセスを通して獲得された心理的なメカニズムが連動し、利己主義を抑制、もしくは統制して、協力的な社会の構築を可能にするものである。」

「進化のプロセスを通して獲得された心理的なメカニズム」が指すのは、「道徳のマトリックス」です。道徳のマトリックスとは、端的にいえば、道徳の“味覚”のようなものの組み合わせ。道徳をはかる味覚=6つの指標は、「ケア/危害」「自由/抑圧」「公正/欺瞞」「忠誠/背信」「権威/転覆」「神聖/堕落」にわけられます。括弧内の左が価値観で、右がそれが破られた状態を表します。

たとえば、「ケア/危害」では、子どもをみれば守らなければならない気持ちが湧いてくることであったり、動物が暴力にさらされるシーンをみれば嫌悪感をおぼえるような生得的な感情を指します。上の定義付けにもあるように、協力的な社会の構築であったり、人が生きていくために身につけざるを得なかったものです。

これらの指標を重視する度合いの組み合わせによって、人それぞれの政治思想、リベラリズムであったり、保守であったりが決まってくると筆者は述べています。そもそもこの本は、リベラリズム(社会民主主義的リベラリズム)、というかWEIRD(Western、Educated、Industrialized、Rich、Democratic)はなぜ保守に勝てないのか、というテーマで書かれていて、リベラリズムは「ケア」「自由」の指標がほかと比べて高く他の指標が低いのに対し、保守思想(おそらく、緩やかな)は6つの指標を満遍なく重要視するということです。

いずれにせよ、人の思想は生得的≒直観的にもつ道徳指標に影響を受け、意識的であれ無意識的であれ、人にはそれぞれ道徳のマトリックスがあるということを理解すること。あの人とは思想が合わない、ということは日常的に起こりますが、そんなときこそ、ザイアンス効果ではないですが、さまざまな生活上の共通点を見い出した付き合いをしたいですね。

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