「政治」は権力闘争と公共性の二面性をもつものだと思いますが、権力にかかわるものについていえば、政治は「利益の分配」に関する「権力の獲得喪失・行使、ルールの決定にかかる動きそのもの」だと、個人的に考えています。権力とは、相手方の意思に関係なく自己の意思をつらぬくあらゆる力です。
公共性ということを考えなければ、この意味において、政治は社会のあらゆる場所に存在します。たとえば、会社でも社内政治がうんぬんとよく言われますが、たいていの場合、政治は悪い意味で使われます。利益分配のために汚い(ように見える)交渉や、妬み嫉みがからむため、どうしてもあくどい印象をもたれてしまいます。
ただ、社会のあらゆる場所に政治が存在するのであれば、政治はわれわれの社会生活において避けては通れないものであるわけです。欲しいものがすべて手に入るわけではないし、自分の主張がすべて通るわけではない社会にあって、すこしでも自分の利益や主張を受け入れてもらえるように、わたしたちは日々意識的であれ無意識的であれ、利益分配の動きに関わっているはずだからです。そしてそこにはもれなく権力関係があります。
技術の欠如を言い訳にしてはならない
理想は美しく、そして尊重されるべきものです。しかし現実のアプローチにそのまま適用するのは間違っています。「利益の分配」にいたるまでのプロセスで、あのやりかたはおかしい!といくら叫ぼうとも、それが社会的に認められるものであれば(時には認められないものでも)、負け犬の遠吠えになってしまう。もちろん、おかしいやり方をとったことによって後の不利益が発生することがある場合、それは政治的に正しいやり方とはいえないかもしれませんが、そういうゴリ押しや狡猾な手段で利益を手にする組織や個人がいることは確かです。
すべての場合に当てはまるとは言い切れませんが、ゴリ押しや狡猾な手段に対抗して、何もしない(何もできない)ことを美徳としてはいけません。それはみずからの技術のなさを露呈しているだけです。リアリズムの価値観を下敷きにしてのみ理想論は存在すべきです。もちろん、肉を切らせて骨を断つ場合、傷口から同じ毒をもらわないように常に自問自答する必要はあります。
政治活動を行うものは、みずからの政治理念をもっているはずです。ただ、自分が正しいとかたくなに信じて他人の話を聞かないことほど馬鹿馬鹿しいことはありません。教養を高め、いろいろな意見に耳をかたむけ、熟考して行動しなければなりません。それでもなお、わかりあえない理想の対立があるからこそ、戦わなければならないときがあると思うのです。
柳のようにしなやかに
わかりやすく話すことや説明することを頭のいい証拠であるという風潮があったり、演説やプレゼンに関してシンプルにまとめる技術は社会人にとって必須のスキルであるいわれています。ただ、現代の複雑な社会的問題について、わかりやすく訴えることが必ずしも正しいとは限りません。これはなにもポピュリズムという現象についてのみ言っているわけではありません。
みずからの利益のために、いまこのときの100対0の勝利を目指し、お構いなしに突き進む。わかりやすくゴリ押しで利益をとりにくる。トランプ大統領が国際社会に登場して以来、まさにむきだしの「政治的」なるものを見ている気がします。そして、こういったわかりやすさは人を魅了することも。
人間は政治的動物(ポリス的動物)であるとはアリストテレスの言葉です。もっとも、これは政治の公共性についてあてはまる言葉であるのですが。トランプのようなタイプの人をみると、たとえわかりにくくても、用意周到で柔軟、かつ制度的に持続性のあるやり方で目的を達成するという姿勢を忘れてはいけない、という思いを強くします。なかなかできることではありませんが、柳のようにしなやかに耐えて力をつけること。それが私の個人的な理想であり、目指すコミュニティの抽象的な理想像でもあります。